「南菜さんは麻薬に手を出して命を絶った。そんな噂が広がれば、困るのはむしろ柴沼さんの方だと思いますよ。たとえご両親や弥耶さん本人が違うと言い張ったところで、世間はそうは見てはくれません。姉が麻薬などに手を出したのだ。妹だって同じかもしれない。そんな噂までもが、それこそ捏造されてしまうかもしれない」
「そんな、弥耶はそんな事は絶対にしません」
「それは事実かもしれませんが、真実だとは断定できません。真実を決めるのは世間です」
ソファーの背に身を埋める。
「世間が弥耶さんを疑えば、それが真実になるのです。事実など真実の前では無力だ」
弥耶は視線を落とし、膝の上で両手を握り締める。
「それに、弥耶さんが学校に残れば、お姉さまの死がいつまでも生徒の記憶から消える事はないでしょう。弥耶さんの姿を見るたびに、周囲は嫌でも思い出してしまう。そうなれば、自殺の真相が知れる可能性も高くなる。今は隠し通せていますが、こちらの力にも限度があります」
一刻も早く事件を人々の記憶から消し去りたい学校側にとって、弥耶は邪魔なだけの存在なのだ。
「今なら自主退学という形で事を収めましょう。転校先の手配もこちらで致します。南菜さんの麻薬の件も内密にしますよ」
校長は埋めていた身を起こし、今度はゆっくりと乗り出してきた。そうして父親の顔に息がかかるほどのそばで薄く笑った。
「これ以上の好条件は無いとは思いませんか?」
「結局アタシはその日以降、一度も唐渓へは行かせてはもらえなかった。数日後には転校させられていた」
姉の自殺の真相は、その後の門浦の逮捕ですっかり世間の知るところとなった。門浦の逮捕以前から、自殺した女子生徒は麻薬に手を出していたのではないかという噂は囁かれていて、情報のなかなかまわってはこない美鶴ですら断片的ながら聞いてはいたのだから、弥耶の自主退学などは、結局は何の意味も成さなかった。
新しい学校は一ヶ月ほどで辞めた。唐渓中学での生活がすっかり染み付いていた弥耶には、普通の学生生活など、とてもできなかった。常に上下関係をつくり、堕とすか堕とされるかの駆け引きを繰り広げていた世界を当たり前だと思っていた弥耶には、みんな平等で仲良しという世界の良さがわからなかった。
見下すか謙るような態度しかできない弥耶を受け入れてくれるような生徒など、一人もいなかった。
「どいつもこいつも、まるで珍獣でも見るかのような視線でアタシを見て、寄り付きもしなければ逆にイジメもしない。ホンットに居心地の悪い世界だった」
そう、かな。
美鶴は複雑な気持ち。
唐渓よりも他の学校の方が居心地が悪いだなんて、私には理解できない。きっと、根っからの唐渓生なんだな。これが、育ちが違うってコトなんだろうか? でも、この子の家は唐渓ではそれほど裕福ってワケではなかったはずだし。
でも、唐渓に通う他の生徒と同じようになりたいとは、思っていたのかもしれない。自ら染まりたいと思えば、いくらでも簡単に唐渓カラーに染まることはできる。
唐渓に通う生徒と他の学校の生徒は、それぞれ違う世界で生きているということなのだろうか? やっぱりそこには隔たりがあって、それぞれ住み分けなくてはならないのだろうか?
だとしたら、私はきっと、異世界に間違って入り込んでしまったんだ。
「学校辞めて、でも家にも帰らなかった。お父さんとお母さんはすっかり険悪な仲になっちゃっていつ離婚してもおかしくない状態だった。あんな家、居てもつまんない。転校が決まった時、お母さんは私を連れてこの街を離れて、どこか遠くへ引っ越したいと思っていたみたいだけれど、お父さんは仕事があるからと残りたがっていた」
必死に仕事を続けてきた父。それは家族のためだとはいいながらも、今ここで辞めてしまっては、今まで積み重ねてきた会社での苦労がすべて泡となってしまうような気がした。不況でリストラが断行されるなかでも必死にしがみついてきたのだ。会社を辞めるなど、考えられない。
そして弥耶は、母と二人での生活なんて考えられなかった。
そんなのヤだよ。お姉ちゃんが死んでからヒステリックになってよく私にも八つ当たりをするようになったから、そんな人間と二人で生活するなんて、どうしてもイヤだった。まだ仕事に没頭しているお父さんと一緒にいる方がマシだと思った。だからこの街を離れなかった。
学校を辞めて昼間から駅前をフラついていれば、声を掛けてくる人間などいくらでもいる。弥耶はとにかく楽しみたかった。姉の自殺以来、愉しいコトなど一つもない。どこかで思いっきり楽しみたかった。笑いたかった。
「クラブ行って、お酒飲みながら踊ってると、嫌な事なんて全部忘れて楽しめる。クスリもやった。一瞬で楽園に飛んでいける。こんなの使ってただなんて、お姉ちゃん、なんで教えてくれなかったんだろう」
瞳が恍惚としてくる。クスリという言葉に美鶴はギョッとした。ユンミは黙って押さえつけるだけ。
「ただ楽しくなりたいだけなのに、なんでダメなんだろう。なんでクスリ使っちゃダメなんだろうって、そう考えるとだんだん腹が立ってきた。なんでお姉ちゃんは自殺する必要があったんだろうってね」
なぜ姉は自殺したのだろう。姉の何がいけなかったのだろう。姉は何も悪い事はしていない。ただ日々を楽しく過ごしたかっただけだ。誰かに迷惑をかけていたワケでもないし、誰かの物を盗んだワケでもない。誰かの命を奪ったワケでもない。なのに、なぜ姉は自殺しなければいけなかったのだろう。なぜ姉は責められるのだろうか。
考えてみれば、なぜ姉が自殺をしたのか、その原因はハッキリとはわからない。なぜならば、両親も学校も、麻薬を使用していたという事実にばかり目を向けていて、なぜ自殺という結末に至ったのかといった原因については考えようとはしていなかったからだ。
なぜだ。なぜ姉は命を絶った? 姉の何がいけなかったのだ?
唐渓で、自分よりも格下だと思われる生徒をイビっているヤツらの方が、よっぽど悪人なのではないだろうか。
季節は過ぎ、やがて姉が死んで一年が経った。弥耶はその日もグタグタと木塚駅の隅でタバコを吸いながら寝るでもなく起きるでもなく過ごしていた。そこをふと、見知った顔が通り過ぎた。
唐渓の制服。だが、弥耶が着ていたものではない。高校の制服だ。
もう未練もない。
そう鼻で笑いながら、だが心の中では笑うことはできなかった。
忘れていたはずの、もう知り合いでもなんでもないはずの人間の顔が、笑いながら改札を抜けていく。
かつての同級生。自分と同じように唐渓中学へ通い、自分が退学した後も楽しい学校生活を送り、そうして今年の春、唐渓高校へと進学した。
自分も、本当はあの制服を着るはずだった。
濃灰の上着。灰色を基調とした、太いラインと細いラインを交差させたウォッチマン・プレイド柄のワンピース。胸元で揺れる水色のリボン。
すべてはまるで夢であったかのよう。かつての同級生は、まるで蜃気楼だったかのようにいつの間にか消えていた。それは春霞に映った幻だったのかもしれない。もともと自分は、唐渓になど、通った事もなかったのかもしれない。そう思いたくなるほど、遠い昔の淡い記憶。
「腹が立った」
短く、一言、まるで唸るような低い声。ユンミに取り押さえられた時に出した、下手な役者が無理矢理出しているような陳腐な威嚇声ではない。それは、本当に腹の底から沸き上がってくる怒り。
腹が立った。無償に腹が立った。かつての同級生が颯爽と唐渓高校の制服を着て通り過ぎてゆく姿を、なぜ自分はこんなところで、ヨレヨレのジャージを来て地面に座り込みながら見上げなくてはならないのか。
見上げている。それは、あの世界から転落してしまったから。
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